由岐のむかし

由岐のむかし

「こんな美しい海岸を私はいまだ見たことがない。」

瀬戸内寂聴(せとうちじゃくちょう)さんは、この徳島県南の海岸美を絶賛しました。
しかしこの海は、美しさと同時に厳しさも合わせ持っています。
雨、風、台風、津波。
海には人間の力など到底及ばないほどの大きな力が渦巻いています。
その厳しい自然環境の中で、自らの生活を切り開いてきた由岐の先人たちのむかしの様子を少しづつ見ていきましょう。

美波町由岐地区(旧由岐町)は東から、伊座利、阿部、志和岐、由岐、田井、木岐の6つの集落があり、それぞれに独自の歴史・文化が存在します。

旧阿部村(伊座利、阿部)のむかし

阿波のいただきさん伊座利、阿部は、昔は港もない荒磯続きの漁村でした。
今もなお、「海女(あま)」と「いただきさん」のふるさととして親しまれているように、人々は小舟を操っての磯漁業や海女によるアワビや海藻類の採取と行商によって生活を支えてきました。そのことは、今も厳しく受け継がれている磯資源の自主規制や建築協定からもうかがうことができます。
だからこそ現在でも国内有数の好漁場としてブランド化され、生き続けているのです。

また、「陸の孤島」と呼ばれるこの土地で生きるために人々は知恵をしぼりました。それは、近郷との物々交換から始まった行商でした。それがのちには全国的な規模に広がり、「阿波のいただきさん」として有名になりました。


旧三岐田町沿岸地域のむかし

志和岐、東由岐、西由岐、木岐は沿岸漁業にその道を開いてきました。
一本釣り、底曳き、延縄、定置網と時代によりその漁法の移り変わりや衰退はみられますが、人々は常に工夫と努力を怠ることなく、幾多の苦難を乗り越えてきました。

そのひとつに、1888年(明治21年)、西由岐の漁夫「石垣弥太郎(いしがきやたろう)」による九州漁場の開拓があげられます。
この九州の漁場開拓は、のちには「五島行き」といわれ、由岐だけでなく県南一帯の漁村の活性化に大変重要な役割を果たしました。それは現在の九州漁業、以西底曳き(いせいそこびき)漁業などの基礎となったもので、まさに日本の漁業史に不滅の名をとどめる快挙です。

由岐の港は遠い昔から天然の良港として栄えてきました。
9世紀の頃の古地図にも「ゆうきが浦」として記されています。
昔から阿波近海の最大の難関といわれた蒲生田岬(がもうだみさき)に最も近く、しかも「ぬの島」という天然の防波堤を備えた良港として、風待ち、潮待ちに数多くの海の旅人たちや漁船が出入りしていたことは想像に難しくありません。
そのことは「太平記」、「源平盛衰記」、「平家物語」、「足利文書」などにも由岐港が度々登場することでもうかがえます。
「土佐日記」の紀貫之(きのつらゆき)も都への帰途、ここで帆を休めたことでしょう。


西の地と田井のむかし

西の地は、古くから商工業の町でした。
かじや、かごや、お菓子屋、うどんやなどの店が軒を並べていました。
その西の地の一部と田井には農作地帯がありますが、特に田井の農家の人々は、農耕には欠かせない水に苦しみました。地形上、自然灌漑の水源がなく、すべて堀井戸に頼らねばなりませんでした。
わずかばかりの田畑を潤すために多くの堀井戸とハネツルベを設けました。


木岐のむかし

木岐では江戸時代より「いさば」と呼ばれる回船業が盛んでした。
大戸や赤松などに産出する良質の木炭、、薪などを近隣諸国に移出するもので、幕末の頃には30数隻の回船を数えています。そして、この他国との交流が木岐に独特の進歩的思想や高い文化をもたらしました。
木岐では明治の初めごろから中頃にかけて他国とは一味違った民権運動が起こっています。進歩的な思想家や文化人、作家が輩出したのもそうした木岐の歴史や風土と大変関係が深いものと考えられます。


むかしの様子をふりかえって

海に生き、大地に生きた由岐の祖先には、大漁旗をなびかせての喜びの思い出もあれば、悲しい遭難の記録もあります。

由岐の歴史には工夫と努力、勇気と開拓の足跡があります。

昔の人々が不自由な環境の中で、何を考え、どう行動したか。

当サイトの、「歴史・文化」のカテゴリには、そういったことを考えさせられる記事があります。ぜひ、この機会に読み進めてみて下さい。

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